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欠けているピースがないとしたら

私はいつでも誰かになりたかった。

可愛くて頭が良くて気が利いている完璧な誰かに。

私の思い描く完璧を持っていそうな人に出会う度に劣等感を覚えたり、みじめに思えたり、

憧れたり、真似してみたりした。

しかし、上手く彼女達のようにはなれなかった。

偽物のような気分かみじめな気分になるだけだった。

目次

いつから誰かのようになりたいと思ったのだろう

思い出してみると小学校の時なのかな。

幼稚園の時までは、私が主役だった。

小学校に入ると「評価される」事柄がたくさんある。

「頭がいい」「運動神経がいい」「みんなの輪の中心にいる」「可愛くておしゃれ」などなど。

私は小学生が評価される部分どこもたいしたことがなかった。

絵は好きだったけれど、もっと上手い人はたくさんいたし、

絵が上手くても小学校生活プラスになることはあまりなかった。

私はもっと褒めてもらいたかったのかもしれない。

母と父から。

だから、母が良く話題に挙げている特徴を持った子になろうとしてたのかな。

頭のいい子、かわいい子、明るい子。

でも、なれなかった。

自分は自分のまま。

だからみじめだったのかな。

特別なことが何もない私をそのまま認めてほしかったのかな。

誰かになりたいは大人になっても続く

誰かになりたいは今でも続いていて、

今は特定の誰かというより頭の中で作り上げた誰か。

母が否定していた言葉の逆の人物像。

気が利いて、結婚していて、子どもがいて、良い母で、良い妻で、料理をしっかりして、部屋を綺麗にして、夫を立てて。

そんな人だれなんだろう。

でも、そんな人になろうと思ったし、なれなければいけないと思った。

母に否定されたくない。

だけれど母も信念を持って否定をしていたわけじゃなくて、

その時の気分や自分の状態、妬みや嫉妬、八つ当たりだってあったわけさ。

でも、子どもの私にはそれが分からなかった。

全部真に受けて吸収した。

それで、正体不明の目標の人物像が出来上がってしまった。

気持ちの中心は、

母に好いてほしい、嫌わないでほしい、受け入れてほしい、認めてほしいなのだと思う。

だけれど、否定された自分では好いてもらえるか分からなくて不安だから、

一生懸命誰かになろうとしたのかもしれない。

大丈夫だよ~。

特別なことが何もない私でも大丈夫なのだよ~。

努力できない自分でも大丈夫なのだよ~。

母のことが好き、受け入れてほしい、褒めてほしい、

はじまりはそこなのかも。

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