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カウンセリング6回目(翌日)

カウンセリング終了後の夜、いろいろ考えて子どもの頃を思い出したりした。

目次

父のこと

カウンセリングでは、父のことはお父さんとしても嫌いだし、人間としても嫌いだと話した。

得体の知れなくて怖い存在。

だけれど、ふと夜になって父との子どもの頃の思い出を思い出した。

父は自分の行きたいところにしか連れて行ってくれなかった。

競馬場、休日の父の勤め先、なじみのお店、知り合いが飼っている犬の散歩。

動物園や遊園地、子ども連れの家族が行きそうな子ども主体の場所に父と一緒に行った記憶はほとんどない。

大人になってからなんて自分勝手な父なのだろうと思っていたけれど、

普段の自分の日常とは違うような大人の世界に行けるようでわくわくしていた

ということを思い出した。

お気に入りのぬいぐるみが乗ったたばこ臭い車で出かける父と2人のお出かけは、

大人の世界に出かけるようで楽しかったのだ。

私はどうしても遊園地に行きたかったわけではないかもしれない。

父が出来る子どもとの関わり

父とお風呂に入るのが小さい頃好きだった。

タオルを湯舟で膨らませたり、自分の知らないことを教えてもらえて楽しかった。

小学校低学年くらいまでは父との関わりがあったと思う。

そして思ったのは、

子どもに何かを教えるということ

というのが父が出来る唯一くらいの関わり方だったのではないかと思った。

私が「子ども」だった頃、「父」が教えられることはたくさんあったけれど、

思春期を経て、大人になっていく娘の私に父が教えられることが、

思いつかなかったのかもしれないなぁと思った。

カウンセリングの先生に、

娘が思春期になりどう接したらいいのか分からなかったのかもしれませんね 

と言われ、そうだとしても頑張ってほしかったなぁと思ったけれど、

父なりには頑張っていた、頑張ろうとしていた、のかなぁと思った。

頑張ってほしかったなぁという気持ちはあるけれど。

人を好きか嫌いに分けなくてもいいのでは

父の嫌なところが多く思い出されて「父は嫌い」「あまりいい父親ではなかった」という気持ちがあったけれど、

「父のことが好き」という気持ちや父との楽しい思い出だって本当はあった。

それを全部無視して、「嫌い」にまとめてしまうことはないのかも。

父の好きな部分もあるし、許せない部分もある。

それでいいのかなと思った。

それでも悲しい寂しい気持ちはあった

それとは別として子どものときの「悲しい」「寂しい」という気持ちは確かにあったので、

その気持ちは認めたい。

自分を見てくれないときがあって寂しかった 

理不尽に怒られて悲しかった

無視されて寂しかった

両親が喧嘩ばかりしてほっておかれて寂しかった

寂しかったのだ。

もっと私を見てほしかったし、気にかけてほしかった

終わりに

父との楽しかったことを思い出してカウンセリングの日の夜は涙が出てきた。

なんの涙かは分からないけれど、あったかい気持ちになった。

それと、カウンセリングが私のダメ出しをもらいに行くような気持ちになり、

ちょっとどんよりしていたけれど、

私のダメ出しというか「こういう考え方のくせがありますね」というのを客観的に言ってもらえる場所なのかなと思った。

たとえば、

自分に都合の良いように考えるところがあるのかも

と言われ、私は、

自分勝手な最低な人間ってこと?

と思ったけれど、

そういうクセがありますね、っていうだけなのかもしれない。

それが良い悪いかではなくて。

私は常に何かに評価されているような気持ちになっているけれど、

それぞれ考え方はあると思いますが、同じ人間で神様のように人間性を評価できる人っているんでしょうか

というカウンセリングの先生の言葉に、確かになぁと思った。

いろんな側面がある私は私しか知らないし、(私も全部知っているかは不明)

たとえば夫のことは私から見えている夫の一部でしかないのだ。

夫のすべてを知っているわけじゃない。

そう思うと一人一人、自分もくっきり相手とは違う生き物なのだ。

多分、母との密着しすぎて、人との境界線があいまいになっているところがあるのかも。

私のことをあなたは全て知っていて、あなたのことを私は全て知っているのが愛だと思っているところがある。

知らないからこそ、尊重するのだ。

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