少しブログをさぼってしまった。
前回のカウンセリングは私の中にずーんと来るものがあって、消化出来ずに少し落ち込んでいた。
季節は春です。
大森靖子さんの「Over the party」という曲の中で、
「桜が終わって40デニール」という歌詞があるのだけれど、
桜が終わった直後の季節を表すぴったりな言葉だなぁと毎年思い出す。
前回のカウンセリングが7回目だと思っていたけれど、今回が7回目でした。
修正しました。
カウンセリングで感じる違和感
今回のカウンセリングとは別に数年前に受けたカウンセリングでも感じていた違和感。
「私より恵まれてそうな収入も私より高そうなカウンセラーさんに高いお金を払いみじめな自分を見せて、上から目線でダメ出しをもらいに私はカウンセリングに通っているんだろう」
これ言ったら終わりよ。
私はみじめでしょうもないからお金を払ってでも、直さないといけない。
と自分に言い聞かせてた。
でも、なんでお金を払ってダメ出しをもらいにいけないといけないんだろうという気持ちがずっとあった。
そして、通うごとにカウンセラーの方に、
「バカにされてるの?」「改善しなくて見放されたらどうしよう」「否定されている」
と感じることが強くなった。
多分このままではいけないと思い勇気を振り絞りカウンセラーの方に上記のことを言ってみた。
言ってみたら、
「そこまで信頼が築けていないのなら、カウンセリングを続けるのは難しいかもしれないですね」
と言われてしまった。
見放されてしまったようでショックだった。
すごく。
でもこれ以上言ったらカウンセリングが終了になってしまうのが怖くて、見放されたようだとは言えなかった。
「信頼しているからこそお話しました」
と伝え、「インナーチャイルド」の本題の前段階で、どうしていったらいいか考えましょうということになった。
とりあえず、カウンセリングは続けられることになったのだ。
家に帰って思ったこと
非常に疲れてしまった。
本音を話したら突き放されたと感じた。
しかしながら、「本当に突き放す意味で言ったのか?」と考えた。
そこで思ったことは、
「カウンセリング」とは先生に私の心の状態を見せ、それを評価してもらい、
悪いところを指摘してもらい、それを改善していくものだと思っていた。
しかしもしかしたら、カウンセリングとは、
「鏡を見る練習」みたいなものなのかな?
と思った。
鏡を日常的に普通に見ている人もいれば、怖くて見れない人もいる。
見たはいいけれど自分の中の思い込みが強くて、ありのままの姿に見れない人もいる。
鏡を見なくても生きていけるけれど、見れた方が今の自分を見ることが出来て、
「それじゃどうしていこう?」というのを考えやすい。
「鏡を見たいけれど見れない!」という人がカウンセリングに行く。
カウンセラーさんは鏡を見るサポートをする方というイメージ。
一緒に鏡を見てくれて、「こういうふうに見えますよ」とか「それは思い込みかもしれないですよ」
とかを言ってくれる方。
だから、カウンセラーの方は応援100%でしかない。
私自身を評価するなんてことはない。
応援100%だからこそ、信頼関係が必要。
自転車の練習をするときに、後ろを手で持ってくれる方みたいなイメージ。
持ってくれていると信頼できないと安心して練習はできない。
(実はそっと離している時があったとしても)
だから、「信頼が築けていないとカウンセリングは難しい」というお話をしたのかなぁと思った。
いつか、一人で自転車を乗れるような、
いつか、一人でも鏡を見れるような練習。
次回この話をカウンセラーさんにしてみようと思う。
受け入れてほしい
カウンセラーさんに「見放された!」と思ったってことは、
私はカウンセラーさんに受け入れてほしかったんだと思った。
というか、いろんな人に受け入れてほしいと思っている。
特に、力があると感じる人にはそう思っちゃうかも。
カウンセラーさんもカウンセリング関係については受け入れてくれているのだと思う。
だけれど、私が欲している「全部を受け入れて!」というのは違うと思う。
そんな親と子の関係みたいのを、大人になってやるのは難しい。
し、それが幸せかは分からん。
だから、私が私を全部受け入れたらいいのだ!と思った。
24時間一緒にいる私が私を全部受け入れたらいいのだ。
頑張った自分も頑張れない自分も頑張らない自分も。
好きなところも嫌いなところも。
自分が受け入れてくれると思えば、大丈夫な気がする。
気がするだけだが、ちょっとやってみようと思い、
自分を受け入れる練習をしてみている。
自分を尊重する
自分を尊重するってなんだろう。
出来ていないのは分かるけど、尊重する方法が分からない。
思いついたのが、「自分を受け入れる」と「自分に構う」。
恋人がほしいときは、外見に気を使っていたけれど、
結婚した今ほんとにどーでもよくなってしまった。
「誰かに受け入れてもらう」ためだけに自分の外見に手を掛けていたのだ。
難しいけれど、自分のために自分の外側だって大事にしよう。
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